江戸詰めの藩士たちは安井彦右衛門や藤井又左衛門など赤穂藩から逃亡した者を除いて、多くが吉良上野介義央を主君に代わって討つべしと主張するようになった。特に剣豪として江戸で名を馳せていた堀部安兵衛武庸(馬廻役200石)、高田又兵衛の子孫であり槍の達人の高田郡兵衛(馬廻役200石)、堀部の剣の同門である奥田孫太夫 (武具奉行。馬廻役150石)などが強硬に吉良上野介の首級をあげるべきと主張した、片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門、田中貞四郎ら浅野内匠頭の寵愛を受けた側近達も同様に仇討ちを主張した。しかし、腕を天下に披露したい武芸者の堀部らは吉良邸への討ち入りを主張したのに対し、主君への報恩第一の寵臣片岡らは行列襲撃してでも即時の吉良殺害を主張するなど意見が食い違い、ついには片岡らは江戸を飛び出して、3月27日(5月4日)に赤穂へ入って同志を募ろうとしたが、この頃、赤穂城では大石内蔵助のもと殉死切腹が主流であったため、片岡らの吉良を討つという主張は受け入れられず、赤穂も去っていった。以降は江戸へ戻って三人だけで独自に吉良上野介の首を狙うようになる。
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赤穂城開城直前の4月14日(5月21日)には堀部安兵衛、高田郡兵衛、奥田孫太夫たちも赤穂へ入った。ただちに内蔵助はじめ重臣達に会見を申し込んで吉良上野介への仇討ちを主張したが、大石らからは「上野介へ仇討ちはするが、まず大学様のお家再興をしなければならない。時期を見よ」と諭され、赤穂開城を見届けたのち、5月12日(6月17日)には江戸へ帰っていった。しかし江戸へ帰った後も堀部達は吉良への仇討ち計画を進め、内蔵助に江戸下向を迫り続ける。
こうしたお家再興よりも吉良家への仇討ちを優先しようとする勢力は、江戸詰めの藩士たちに多かったため、彼らは江戸急進派と呼ばれた。
御家再興優先派と江戸急進派の軋轢
内蔵助像赤穂を離れた後の7月、内蔵助は山城国山科に隠棲する。ここは公家であり、大石と遠縁にあたる摂関近衛家の領地で、内蔵助親戚の同志進藤源四郎俊式の一族進藤刑部大輔長之(近衛家諸大夫)がこの土地を管理していた。
山科に居を移した直後の内蔵助は、吉良家への仇討ちより浅野家お家再興を優先した。小野寺十内秀和とともに美濃国大垣城へ赴いて戸田氏定に拝謁して浅野家再興を嘆願。また江戸で浅野家再興運動中の遠林寺住職祐海とも書状で連絡を取り合った。
この大石の動きに苛立つ堀部ら江戸急進派は、6月頃から内蔵助江戸下向を迫る書状を送りつけてくるようになったが、大石はひたすら大学のため隠忍自重するよう求める返書を書き続け、江戸下向を避けた。苛立つ堀部らは、とうとう8月19日付けの書状で「大学様も兄親の切腹を見ながらでは、100万石が下されても人前に立てないだろう」と述べるようになり、大石は江戸急進派鎮撫に使者の派遣の必要性を感じるようになったとされる。
9月下旬、内蔵助は原惣右衛門(300石足軽頭)、潮田又之丞(200石絵図奉行)、中村勘助(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤源四郎(400石足軽頭)と大高源五(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは逆に堀部安兵衛に論破されて急進派になってしまったため、元禄14年(1701年)10月20日(11月19日)大石内蔵助が自身で江戸へ下向する。これは大石第一次東下りとも呼ばれる。
江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で堀部と会談し、浅野内匠頭の一周忌になる明年3月に決行を約束した。またこの際、かつて赤穂藩を追われた不破数右衛門が一党に加えてほしいと参じたため、大石は内匠頭の眠る泉岳寺へ参詣した際に主君の墓前で不破に浅野家への帰参と同志へ加えることの許可を与えた。この江戸下向の際に荒木政羽や内匠頭正室の瑤泉院とも会見している。江戸で一通りすべきことを終えた大石は、12月には京都へ戻った。帰京後から大石内蔵助の伏見撞木町(京都府京都市伏見区撞木町)などでの放蕩が激しくなったといわれる。
京 祇園社内蔵助の放蕩三昧については、落合勝信の著作といわれる「江赤見聞記」にあるが、真相は不明。堀部筆記のなかに内蔵助の放蕩について触れたものは確認されていないため、少なくとも江戸方の同志の耳には入っていなかったのではないかとして、放蕩を疑う説もある。 「江赤見聞記」は吉良家の遠縁にあたる伏見奉行建部政宇の目をくらますためとしている。
進藤源四郎と小山源五左衛門は、内蔵助の側にお軽という妾をおいているが、これは江戸急進派がこれ以上激昂しないように内蔵助の放蕩をおさえようとしたのだという。この女性がのちに「仮名手本忠臣蔵」の登場人物「おかる」に転じることになる。
吉良家屋敷替え
大石が御家再興運動や堀部らとの論争をしている頃、江戸幕府では吉良家に対して厳しい処分を下し始めていた。まず元禄14年8月19日(1701年9月21日)に吉良家の屋敷が江戸城のお膝元呉服橋から当時江戸の外れといわれていた本所(現東京都墨田区両国3丁目)の松平登之助の上ゲ屋敷に屋敷代えとなり、さらにその直後の8月21日(8月23日)には、庄田下総守(浅野を庭先で切腹させた大目付)、大友近江守義孝(吉良義央と親しくしていた高家仲間)、東条冬重(吉良義央の実弟)の三名を同時に呼び出して「勤めがよくない」などと咎めて役職を取り上げた。
この状況に吉良も高家肝入職への復帰を絶望視し、12月12日(1702年1月9日)には家督を養子左兵衛義周に譲って隠居してしまった。またさらに吉良上野介には実子として出羽国 米沢藩主上杉綱憲(15万石)がいたので、吉良が米沢城に移るという噂もたった。奥方富子も屋敷替えになった際に上杉家の実家に帰っていた。富子が新しい屋敷に同道せず上杉家へ戻った理由は諸説あり定かではない。離婚説、「浅野が腹を切ったのだから貴方も切ったらどうです」といったせいで不仲になった説、討ち入りを案じて吉良が帰した説、新しい屋敷がせまくて女中を連れていけなかった説などがある。
円山会議
年末からは脱盟者も出始め、同志の1人萱野三平は父の萱野七郎左衛門と浅野家への忠孝の間で苦悩して自害、橋本平左衛門も遊女はつと恋仲となり、忠義を捨てて彼女と心中してしまった。また江戸急進派の中心人物高田郡兵衛も旗本内田三郎右衛門との養子縁組騒動を機に脱盟した。高田の脱盟は江戸急進派の顔を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。内蔵助はこれを好機として元禄15年(1702年)2月15日(3月13日)の山科と円山での会議において「大学様の処分が決まるまで決起しない」ことを決定する。
3月5日(4月1日)、吉田忠左衛門(200石加東郡郡代)と近松勘六(馬廻250石)がこの決定を江戸の同志達に伝えるべく下向した。吉田はまず江戸で孤立していた片岡源五右衛門ら内匠頭近臣組と面会すると説得して大石の盟約に加わらせている。そして3月8日(4月4日)に江戸急進派のリーダー格の堀部安兵衛と両国米沢町(現東京都中央区東日本橋2丁目)で会談に及んだ。しかし案の上安兵衛ら江戸急進派は決定に納得せず、内蔵助をはずして代わりに原惣右衛門を大将にして独自に決起することを模索しつつ、6月には内蔵助との最後の調整のため堀部安兵衛が自ら京都へ乗り込んでくることとなった。安兵衛は「もはや大石は不要」として内蔵助を斬り捨てるつもりだったとも言われる。しかしちょうどこの頃、遠林寺の祐海などを通じて内蔵助もお家再興が難しい情勢を知ったとされる。また7月18日(8月11日)には、実際に幕府が浅野大学長広に広島藩への永預かりを言い渡したことで、お家再興の望みは完全に絶たれる。内蔵助も以降は討ち入り一本と決め、安兵衛ら江戸急進派との対立はここに解消された。
7月28日(8月21日)、内蔵助は、堀部安兵衛も招いて京都円山で同志との会議を開き、本所吉良屋敷への討ち入りを決定した。
神文返し
堀部安兵衛は早速これを江戸急進派の同志達に伝えるべく江戸へ戻っていった。また大石内蔵助はお家再興だけを目当てに盟約を参加していた者がいるであろうことを鑑みて、大高源五と貝賀弥左衛門に同志を訪ねさせて義盟への誓紙を一度返却させ、盟約から抜ける機会を与えた。大高源五たちは誓紙の返還を拒んだ者だけに仇討ちの真意を伝えた。この行為は「神文返し」と呼ばれた。 この頃には江戸の同志や遅れて出した同志も足して130人を超えていたが、神文返しによってその数は60人以下になったとされている。
重臣のなかで脱盟したのは、奥野将監定良(組頭1000石)、進藤源四郎俊式(足軽頭400石)、小山源五左衛門良師(足軽頭300石)、河村伝兵衛(足軽頭400石)、佐々小左衛門(足軽頭200石)、多川九左衛門(持筒頭・足軽頭400石)、月岡治右衛門(歩行小姓頭300石)、岡本次郎左衛門重之(大阪留守居400石)、糟谷勘左衛門秀信(用人250石)など。
なかでも奥野将監は大石内蔵助をのぞけば浅野家中で最上の1000石取りの重臣で、また進藤源四郎と小山源五左衛門は、大石内蔵助の叔父にあたる者だった。御家再興運動では大石の参謀として働いた者たちだった。ある程度の脱盟は予想していた内蔵助もさすがにこの三人の脱盟は予想できず、その脱盟を非常に惜しんだという。
この時点で同盟に残った上方の同志たちは、残される家族の処置をしてから続々と江戸へ向かっていった。
この家族の処置にあたって特に苦難したとされるのは若年の同志矢頭右衛門七で、赤穂退去後、矢頭家は大阪に移住していたが、ここで父矢頭長助が病死してしまう。右衛門七は、母妹達をつれて母の実家がある奥州白河藩へ向かったが、荒井関所を女人手形不携行のため、通してもらえなかった。結局右衛門七は大阪の知人に母たちを預けて江戸へ下向している。
内蔵助は、盟約に加わることを望んだ嫡男大石主税良金だけを自分のもとに残して、妻りくや子供らは絶縁の上、豊岡の石束源五兵衛毎公のところへ帰している。特に連座が予想される次男の吉千代は仏門に入れている。そして9月19日(11月8日)、まず嫡男の大石主税を江戸へ下向させた。続いて10月7日(11月25日)には内蔵助自身も江戸へ出立する(第二次大石東下り)。第一次とは違い、今度こそ吉良を討つための下向であった。
討ち入りまで
道中の富士で内蔵助は曾我兄弟の墓を詣でたという。ドラマ等では、「日野家用人垣見五郎兵衛」と変名していた大石が、道中本物の垣見五郎兵衛と出会うといった演出がされたものもある。
10月23日(12月11日)には鎌倉へ到着。ここで吉田忠左衛門らが大石を出迎えた。さらに忠左衛門らが用意しておいた川崎平間村の軽部五兵衛宅の離れに滞在する。内蔵助はここから同志たちに今後の綱領「訓令十カ条」を発した。
11月5日(12月23日)に内蔵助の一行は江戸へ入る。江戸では日本橋石町三丁目(現東京都中央区日本橋本町)の宿屋小山屋弥兵衛店に滞在。公事訴訟のために滞在する垣見左内(大石主税)の後見人垣見五郎兵衛と名乗った。内蔵助や主税のほかには潮田又之丞、小野寺十内、近松勘六、大石瀬左衛門、早水藤左衛門、菅谷半之丞、三村次郎左衛門、内蔵助若党二人(加瀬村幸七、室井左六)、近松勘六の下男一人、計12名がここに滞在した。
他にも麹町、本所、両国、築地、芝、南八丁堀湊町、深川黒江町などに借宅や店を借りて同志たちが滞在した。
大石内蔵助は本所吉良屋敷を同志に探らせ、吉良邸絵図面を入手した。この絵図面入手経路について岡野金右衛門とお艶の逸話(後述)が生まれたが、寺坂の私記には「内縁をもって入手した」としている。この「内縁」とは、堀部弥兵衛の後妻の実家忠見氏は吉良邸の隣人である本多孫太郎長員(幕府から派遣される越前松平家家老(監視役))の家臣であることから忠見氏ともされている。また大石瀬左衛門の母方の叔父太田加兵衛が吉良家屋敷の前主松平登之助信望の家臣であることから、こちらとする説もある。
吉良上野介在邸確実の日を探る必要もあったため、しばしば吉良邸に招かれて、『源氏物語』や『伊勢物語』を進講したり、歌の指導をしていた国学者荷田春満が、大石の友人であったので春満を通じて吉良邸茶会が12月14日にあるという情報を入手。さらに春満の推挙をもらって大高源五(脇屋新兵衛)を茶人山田宗偏に弟子入りさせる。宗偏は本所に茶室を構えていたので吉良上野介から吉良家の茶会にしばしば招かれていた。そしてその宗偏からも吉良家の茶会が12月14日にあることを聞き出した。内蔵助は確かな情報と判断し、この日12月14日(1703年1月30日)を討ち入りの日と決定した。
11月29日(1703年1月16日)、大石内蔵助は、赤坂今井の三次藩下屋敷にいる浅野長矩正室瑤泉院の用人落合与左衛門勝信宛で赤穂藩藩金の使用明細書とその傍証資料を送っている。このことと第一次大石東下りの際に大石が瑤泉院に拝謁したことがヒントとなって討ち入り直前に大石が瑤泉院に拝謁し、今生の別れをするという「南部坂雪の別れ」の逸話(後述)が生まれたとされている。
12月2日、頼母子講を装って全同志が深川八幡茶屋に集まった。このときに討ち入り時の綱領「人々心覚」が定められ、その中で武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない」ことを定めた。
江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、田中貞四郎(側用人150石。酒乱をおこして脱盟。)、小山田庄左衛門(100石。片岡源五右衛門から金を盗んで逃亡)、中村清右衛門(側用人100石。理由不明)鈴田十八(理由不明)、中田理平次(30石4李施。理由不明)、毛利小平太(大納戸役20石5人扶持。理由不明)、瀬尾孫左衛門(大石家家臣。理由不明)、矢野伊助(足軽5石2人扶持。理由不明)の8名が姿を消した。
最後まで残った同志の数は47人。
討ち入り
14日(30日)夜。『人々心得之覚書』によれば、47人の赤穂浪士は九つ(午後24時ごろ)の鐘によって行動を開始し、江戸市中3か所に集合して、本所吉良屋敷(現在の本所松坂町公園)へと向かった。実際に襲撃したのは現在の時刻で翌15日(31日)に入っての未明午前4時頃であったが、江戸時代の慣習では日の出の明け六つ鐘(1月31日では6時45分頃)を1日の区切りとしたので、当時の日付としては「14日の斬り込み」となる。この時に雪が降っていたというのは『仮名手本忠臣蔵』での脚色であり、実際は冷え込みが厳しかったが満月のほぼ快晴だったといわれている。
表門隊
表門隊の大将は大石内蔵助。その下に23士が属した。そのうち片岡源五右衛門高房(槍)、富森助右衛門正因(槍)、武林唯七隆重(槍)、奥田孫大夫重盛(太刀)、矢田五郎右衛門助武(槍)、勝田新左衛門武堯(槍)、吉田沢右衛門兼貞、岡島八十右衛門常樹、小野寺幸右衛門秀富の9士で吉良邸内へ突入している。
庭の見張りについたものは早水藤左衛門満堯(弓)、神崎与五郎則休(弓)、矢頭右衛門七教兼(槍)、大高源五忠雄(太刀)、近松勘六行重、間重次郎光興(槍)の6士。
新門の見張りについた者は、堀部弥兵衛金丸(槍)、村松喜兵衛秀直(槍)、岡野金右衛門包秀(槍)、横川勘平宗利(槍)、貝賀弥左衛門友信の5士。
そして表門には大石内蔵助(槍)、原惣右衛門元辰(槍)、間瀬久大夫正明(半弓)という参謀格の3士が陣取り、表門隊の指揮をとった。
裏門隊
裏門隊の大将は大石内蔵助の嫡男大石主税。実質的な指揮者は吉田忠左衛門。その下に24士が属した。そのうち堀部安兵衛武庸(太刀)、礒貝十郎左衛門正久(槍)、倉橋伝助武幸、杉野十平次次房、赤埴源蔵重賢、三村次郎左衛門包常、菅谷半之丞政利、大石瀬左衛門信清(槍)、村松三大夫高直(槍)、寺坂吉右衛門信行の10士が吉良邸内へと突入した。
庭内の見張りは大石主税良金(槍)、潮田又之丞高教、中村勘助正辰(槍)、奥田貞右衛門行高(太刀)、間瀬孫九郎正辰(槍)、千馬三郎兵衛光忠(半弓)、茅野和助常成(弓)、間新六光風(弓)、木村岡右衛門貞行(槍)、不破数右衛門正種(槍)、前原伊助宗房(槍)の11士。
裏門には吉田忠左衛門兼亮(槍)、小野寺十内秀和(槍)、間喜兵衛光延(槍)が陣取り、裏門隊の指揮をとった。